前回の記事 では、指図してくれる「教官」が乗ってくれていないと
ちゃんと運転できないのに、「教官」をぞんざいに扱ってしまう
「依存傾向」のある人について書きました。
今回は、わざわざ乱暴な運転のクルマに乗って、
無茶なドライバーを助けてあげようとしてしまう
「共依存傾向」の人についてです。
わたしは、「依存がダメ」と思って回復したつもりになっていた頃は、
当然、その対になる「共依存」と呼ばれることもダメだと思っていました。
共依存は、特定の人間関係に執着して、相手をコントロールしようとしたり、
ヘトヘトになるまで相手に尽くしてまでしがみつこうとする、
人間関係のアディクション(依存)みたいなものだと言われています。
人はそれぞれ自立して生きるべきだ、
相手をコントロールすべきでない、
「自分」を持つ必要がある、
と思っていましたので、
「あなたの夢が自分の夢」というような「一体感」を持ってくれる人に対して、
母のコントロール下にあったころの自分の不自由さを思いだしては、
息苦しさを感じていたのでした。
実際に心理セラピーでは、「境界線を保つ」ことは
健全な人間関係をつくる基本とされており、
多くの場合、自立への支援になることが多いのです。
「相手」と「自分」とは違う。
だから、相手の不機嫌に巻き込まれたり、
自分の感情を出すことを恐れなくていい、というように。
だから、依存から回復した「つもり」だったわたしは、
「あなたの夢が私の夢」と言ってくれる人が苦手でした。
あるときパートナーから
「共依存でなにが悪い?」
と言われたことがありました。
「依存」から「回復」できて、それが「いいこと」だと思い込んでいたわたしには
「共依存でなにが悪い」ときっぱり言う
パートナーの考えがさっぱり理解できなかったのです。
でもよく考えてみたら、
そのようなパートナーを自分の人生に招きいれていたのは、わたし自身です。
ひとりで車を運転する自信がないから、
横に乗ってくれる人を求めていたのです。
人に依存してしまう人のほとんどがそうであるように、
わたしも「ひとりが好きだけど、ひとりではなにもできない」
タイプの人間でした。
ときどき、ひとりではじけたようになにかをやるのですが、
それは勢いあまってという感じで、
とうてい、自立した大人のやることではなかったと思います。
口うるさくコントロールする人が嫌で、遠ざけようとするのに、
ひとりではなにもできないので、世話してくれる人が好きなのです。
だから巧みに人を自分のクルマに招き入れ、お世話してもらっていたのかもしれません。
実際、一般的に言って、助手席に乗ってくれる「共依存」タイプの人は、とてもいい人です。
世話好きで、愛想がよく、約束をきちんと守り、
依存的なパートナーの肩代わりをちゃんとしてくれます。
依存的な「ダメ」な教習生と、
「いい人」の指導教官。
人生では、たいてい教習生が、
すでに教習所でおとなしく運転練習をしていた時期を過ぎ、
シミュレーションゲームをセットして悪夢のような運転を繰り広げていますので、
乗りこんだ教官役は大変です。
なんでこんなひどい運転をするのかわからないし、
きちんとした運転になるように「指導」しようものならけんかになるし、
みんなへとへとに疲れたあげく、
ご相談に来られるのです。
方法は3つしかありません。
ひとつは、ひどい運転のクルマを止めさせること。
でもこれはたいてい成功しません。
依存傾向のある方は、「聞く耳」を持っていないことが多いので、
アドバイスしても「反応」されてしまって話になりません。
ふたつめは、隙をみてクルマから降りること。
少なくとも一緒に怖いドライブを体験しなくて済みます。
そして最後は、ゲームを一緒に体験することです。
どれがいいということはありません。
わたしは多くの方々を見てきましたが、本当に人それぞれだと実感しています。
やめさせることをそれこそ何十年もがんばっている人もいますし、
大変な思いをして離婚する方もいますし、
結婚した限りはと、腹をくくってその状況を楽しんでいる人もいます。
クルマを降りる、というのは実は一番難しいかもしれません。
離脱症状を体験することになるからです。
人間関係への依存も、依存は依存。
アルコール依存の人がアルコールを取り上げられたら離脱症状が起きて、
暴れたり妄想を見たりするように、
「人」への依存をしている人から「人」を取り上げられると、同じように反応します。
泣いたり、すがりついたり、あらゆる手をつかって、
離れられないようにしようとします。
なぜならそれは「アディクション」だから。
そんな「離脱症状」を「かわいそう」と思うなら、
別れることはできません。
「かわいそう」と思うとき、パートナーのその狂気は
あなたの人生の一部になっているからです。
それを、「相手の人生」と思えたときには、離れることができます。
アルコールを取り上げることには、頭でわかっているので
相手がどんなに暴れても罪悪感はそれほどありませんが、
自分が去ることで相手が暴れると、
誰でも自分のせいだと思ってしまいます。
でも、本当は違います。
やっぱりそれは、「相手の問題」なのです。
あなたの選択によって「あなたの問題」にすることもできるのです。
教官役の人も、ダメなドライバー役の人も、
やっぱり自分のクセみたいなものがあるのだと思います。
だから今のわたしは、依存を克服しなければならないとか、
共依存はダメだとか思いません。
個性のひとつかな、という感じです。
もちろんその個性が強く出るといろいろ問題が起きて
対処しなければならないこともありますが、
それでもいいのかな、と思うようになりました。
生きるということは、成功体験を積むためのものではないような気がするのです。
失敗などないあの世から、
「できる」という喜び、
「得る」という感動を得るために、
欠乏感を体験しにくる場所なのかなと。
だから、わたしは人に依存する体験は面白いなと思います。
「人」に対する欠乏感から、人を求める気持ちが現れる、
つまり愛を求めるという体験なのだと思うからです。
もちろん、依存されると人は重荷に思うので、
「人を欲する」という体験は、一時は満たされても、
永遠に満たされることはありませんが。
でも、わたしたちは、愛を求めているんだなぁと思うとき、
なんとも愛おしい気持ちになるのです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今日もあなたにすてきなことが、たくさん起こります☆
感謝をこめて。