別れを告げられた大好きだった人のことを
どんなに忘れようとしても忘られなかったり、
パートナーの行動のすべてを知りたいと感じて
コントロールしたくなったり、
特定の人間関係に過度に固執してしまったり、執着されてしまったという経験は、
多かれ少なかれ誰にでもあるのではないでしょうか。
人間関係の悩みを抱える人の多くがそうであるように、
わたしも人との距離感に悩んでいたひとりです。
お客様のご相談をうかがっていると、
みんな根本の悩みは同じなのだなぁと思います。
漠然とした寂しさを抱えていながら、
親しすぎる関係に警戒して素直になれない……。
自分の殻に閉じこもっている人の多くは、
本当は孤独をなによりも恐れているのに、
傷つきたくないから相手に近づかない、
そんな相反する感情を抱えていらっしゃるようです。
パートナーとの関係に執着して、「見捨てられたくない」としがみついたり、
それが高じて相手を縛ろうとしたり、
そんな心のうちをお聞かせいただくうち、
あることに気づくようになりました。
人間関係に執着してしまう人は、「自分が」なく、
誰かの機嫌をとることや誰かの要望に応えなければならないと思いがちで、
自分の気持ちを聞くのが苦手、ということです。
かつてのわたし自身がそうであったように、
「あなたはどうしたい?」という質問に、素直に答えられない、
つまり、相手の出方によって自分の意見を決めるという傾向があります。
そんな方の多くは、たとえば厳しいお母さんに育てられていたり、
いつも期待にこたえようとがんばっていらした方が多いのです。
でも、よくお話をうかがっていくと、本当は
「お母さまなりのご希望」があるというだけで、
「やる」か「やらない」かは、ご本人が決める権利を持っているといえます。
小さな子どものときはともかく、家を出られる年齢になれば、
自分の責任で、「ノー」を言うこともできるのです。
ですが、わたし自身もそうでしたが、「いいなり」になってしまう人は、
「自分では決められない」ということに気づいていません。
だから、ついつい気づいたら誰かにコントロールされてしまいます。
ある方がこんなたとえ話をしてくれました。
自分の人生というクルマを運転する自由を母に取り上げられているから、
自分の好きなように生きることができない。
自分の人生はいつも自動車の教習所で緊張してハンドルを握りしめていたときのように、
いつも好きなところに行けず、ただ言われたままの道を走る人生だと。
本当は、教習車を降りて自分の力で好きなようにドライブしてみたいのに、と思っていた、と。
でも彼はやっとの思いで、家を出て、うるさいお母さんから逃れたにもかかわらず、
自由な人生を手に入れることはなかなかできませんでした。
「生きていてよかった」と思えることは相変わらずなかったので、
うるさく言う人がいなくなり、
積極的に「死にたい」と思うことはなくなりましたが、
「生きたい」とも思えないままで、いつお迎えが来てもいいのになぁと思っていたそうです。
結局彼は、教習所で教官のいいなりになって運転しているから、
好きなところに行くことができないのだ、と思いこんでいたけれど、
うるさい教官に頼んで、クルマを降りてもらっても、
いざ自分ひとりになると、
クルマを運転することができずに立ち往生していたのです。
そこで助けを求めればよかったのですが、そうなっても彼は、
自分が「運転できない人なんだ」ということを認めることができなかったのだそうです。
だから、止まっているクルマをみつけて
「どうしたの?」と声をかけてくれる人たちに、
溝にはまり込んでしまってね、とか、
ちょっとエンジンの調子がね、とか、
自分の運転の問題ではなく、クルマの問題なのだと、
具体的には、会社が大変な状態でね、とか
家族が病気になってね、など、
「自分以外の要因のせいで」うまくいっていないと説明していたのだそうです。
そのうち、心配されるのもつらくなり、ますます人に会うことがおっくうになって
引きこもるようになりました。
「自分が運転できないのではなく、クルマに問題があるからなのだ」と、
問題のせいにすることで、
「運転できないという自分」を認めることから
逃げていたのかもしれません。
やっぱり「運転できない自分」、つまり「自分の意志で決められない」、
なんだかんだいって、他者に依存している自分を認めるのはみっともないこと、
そう思っていたそうです。
「運転できない自分」、つまり「依存傾向」にある人は、
ひどい恋愛にのめり込んだり、
世界中を冒険したり、
アルコールに依存したり、
仕事にのめり込んでみたり、
いろんなことを「がんばって」みるようです。
なにかにのめり込むとき、「自分がない」という感覚を味わわずにすむからです。
「ひどい恋愛」とか、「仕事」などは、口うるさい指導教官の代わりに、
シミュレーターのプログラムのようにナビゲートしてくれるのかもしれません。
一般的には、「依存はダメ」と言われますが、
わたしはいいのだと思います。
それもまた、体験だからです。
もちろん、つらい体験なので、「やめたほうがいい」という人が多いと思いますが、
ホラー映画や絶叫マシンにファンがいるように、それも人それぞれです。
今のわたしは、自分自身の体験を含めて、
人が体験するすべてのことは「ゲームみたいなものだ」と知っています。
それでも、誰かに言われるままに運転しては、
「本当は別のところに行きたいのに」と不満いっぱいで生きているよりは、よかったと思えるし、
教官がいないクルマを持て余して、ドライブ自体をあきらめたりしなくてよかったなとも思います。
「生きていたいと思わない」という心理的なひきこもりの感覚は、
大いなる力の存在に気づき、感覚がひらいたきっかけになるわけですが、
それは死と隣り合わせの体験です。
だから、わたし自身も、生かせていただいたと思えるし、
どんな人でも生きていてくれるだけでありがたいな、と心から思います。
依存傾向のある人は、回復したつもりでも、
気がつくとすぐ、自分のクルマに「教官」を乗せてしまいがちです。
次回は、依存傾向のある人がパートナーに選びやすい、
「共依存」傾向の人について書きたいと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今日もあなたにすてきなことが、たくさん起こります☆
感謝をこめて。