先日取材のお仕事で高千穂に行ってきました。
高千穂は、邇邇芸命(ににぎのみこと)が降り立ったという伝説(天孫降臨)があったり、
また、天照大神(あまてらすおおみかみ)がお隠れになった岩戸や、
岩戸におこもりになられたために真っ暗闇になってしまったことに
困りはてた神様たちが集まって相談した場所といわれる場所があったりと、
多くの由緒ある神社が点在しており、日本神話のふるさとともいわれる場所です。
わたしが訪れた時期はちょうど田植えが終わった棚田の美しいころで、
水をたたえた青い田んぼが迎えてくれました。
昔、農業をやっている友人が、
「米は、ほとんど手をかけずにできる」と教えてくれたことがあります。
この日も田植えが終わった田んぼには人影は見えませんでした。
山から湧き出た水に満たされた田んぼに、太陽が降り注いでいて、
本当に土地の神様がお米を育ててくださっている、
そんな感じがいたしました。
聖書にも「空を飛ぶ鳥を見よ、播かず、刈らず、倉に収めず、
然るに汝らの天の父はこれらを養いたまう」
という言葉がありますが、
日本では稲作は、まさに神がわたしたちを養ってくださっているという
象徴的なできごとなのかもしれません。
お金とのつきあい方についてよくご質問を受けますが、
お金とのつきあい方も、稲作にたくさんのヒントがあるように感じます。
たとえばお米の種は、お米です。
籾を大事にとっておき、来年また、まくのです。
全部食べてしまったら、来年まく籾がなくなり、お米を収穫することができません。
また、お米を作る人は、自分の分だけでなく、家族の分、親族の分、そして集落の人の分と、
自分以外の分も多めに作って、お互いに融通しあいます。
海の近くに住む人は、獲れたさかなを農作物と交換しました。
塩だったり、米だったり、野菜だったり、
採れた米をお酒にしたりと、
縁のあるものを少し余分に人の分までつくって、それを交換したのが
経済のなりたちです。
そしていつのまにかモノとモノとの交換が、お金という便利な道具に置き換わっただけでした。
都会にいてお金との交換に慣れてしまっていると、すっかり忘れていますが、
わたしたちは、稲穂のお世話を神さまにしていただいているように、
わたしたちの才能という畑のお世話を、やっぱり天の力でしていただいているから、
それを分ちあうことができているのです。
自分の力だけでやっていることなどなにひとつありません。
お金という道具があまりにも便利すぎて、わたしたちは、
忘れてしまっていることがあまりにも多いような気がしてなりません。
お金だけをみていると、お金が「種」だと思うことはなかなかありませんから、
籾をとっておく、ということが来年の収穫のためにあたりまえのことであっても、
お金を遣いきらないことの大切さを思いだすことは少ないですし、
わたしのいただいたお金と、あの人がいただくお金は、同じものにみえますから、
あの人に分け与える、ということの大切さも、思いだすことはなかなかありません。
でも本当は、わたしが天からいただいたお仕事と、
だれかが渡されたお仕事は、それぞれ違っていて、
それを分ちあうことが、わたしたちの生活を豊かにしてくれているのです。
お米が天に育まれているように、
わたしたちの才能の畑もまた、天に育まれています。
感謝してうけとること、
出し惜しみなく、人のために遣うこと、
豊かさは、そんな気持ちを思いだしたとき、自然にあふれ出すのかもしれませんね。
今までもずっと、そうであったように。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今日もあなたにすてきなことが、たくさん起こります☆
感謝をこめて。