sedona

今年2016年の9月1日は、旧暦の1日(8月1日)と
新暦の1日が重なる珍しい月でした。
 
 
この特別な月には、大きく人生の流れが変わったと感じる方や、
大きな流れの中にいると感じる方も多いかもしれません。
  

ご相談を通しても、またわたし自身においても、
「気づかなかった真実に気づく」ことがたくさんありました。
   

わたしの周りで起きたさまざまなできごとは、
それぞれがまったく違うできごとでありながら、
すべて本質は同じメッセージを含んでいたのです。
 
 
 
それは、「人は、たましいの思い通りにしか生きられない」
ということでした。
 
 
たましいが「お勤め」を望んでいない人は、
またふたたび職場のごたごたにうんざりすることが多かったようですし、
ご本人は望んでいないつもりでも、
たましいがより大きなステージを求めていた人は、昇進のチャンスを得たりと、
「自覚している望み」とは違う結果を手渡された方が多かったように思います。
 
 
 
ただ、よく振り返ってみていただくと、みなさん、
「それを望んでいた」と気づかれるようで、
「もっと活躍したいとおっしゃっていましたね」と投げかけると、
ご自身でも気づかれて、はっとされるようでした。
 
 
 
わたしはかねてから
「人は(ご本人が)言っているとおりになる」と言ってきましたが、
本当にそうだとあらためて確信することがたくさんありました。
 
 
わたし自身においてもそうです。
少しのあいだ、わたしはある「乗り気でないこと」に取り組んでいました。
 
もともとわたしは、誰かのアドバイスに従うタイプではありません。
 
だから人に相談をすることもないのですが、
なぜか相談をしたわけではないのに不思議と人に会うたびに、
「あること」を勧められました。
 
それは20代のときに、挫折の体験とともに手放したものでもありました。
 
いろんな幸運が重なり、驚くほどのトントン拍子で、そしておそらく最高の条件で、
かつて手放した「あること」にあらためて取り組むチャンスを得たのです。
 
 
 
でもそれはうまくいきませんでした。
 
わたし自身の力不足が原因なのですが、
努力とか、誠意とか、こころの持ちようとか、あらゆるものを駆使しても
「あること」は成就せず、
 
わたしは20代のときに体験したことと同じ挫折をもう一度味わうことになりました。
 
そしてぽっかりと空いた気持ちと時間を埋めるように、
旅にでかけました。
 
 
 
赤い岩山の上に静かに座り、わたしはつい最近までの数週間を振り返り、
自分自身の気持ちを観察してみました。
 
そしてその美しいひとときがもたらしてくれる幸福感に包まれながら、
今わたしが選択しているこの自由な時間こそがわたしの本来の望みであり、
わたしは「あること」がやはり嫌いでやりたくなかった、
という自分自身の正直な気持ちが、そこにありました。
 
 
 
わたしたちは、ままならないできごとに遭遇したとき、
上司の能力や家族の性格、置かれている環境が恵まれていないことなど、
その原因を外側に求めがちです。
 
わたしたちの暮らしている社会では、それが「常識」です。
 
例えば失恋で落ち込んでいる人に対して、
「あなたがパートナーと別れたいと思っていたから、別れることになったのですよ」
という分析をしたとしたら、
それは常識で考えれば適切ではないでしょう。
 
 
ですが、おそらく自分自身が気づいていない、
意識の深い部分ではそうなのかもしれません。
 
そして目の前に繰り広げられている現実こそが、
自分の望みそのものなのだとわたしは思っています。
 
 
 
だからもし、あなたが今、つらい現実の中で孤独な戦いの中にいたなら、
ひと呼吸おいて、
 
「本当にこれは自分の望むことなのだろうか?」
 
と問いかけてみてほしいのです。
 
 
努力の可能性を否定はしません。
 
ただ、つらい現実に絶望するくらいなら、
「努力が実らないという現実も存在する」という考えにも
ほんの少しだけ意識を向けてみてください。
 
 
「努力が実らないこと」は、本当の自分の望みとは違うものです。
 
本当の自分の望みとは、
損得勘定や、人目を気にして「あたま」で考えたことではなく、
ハートの中心から湧き上がる「おもい」です。
 
 
 
年初に「思いの具現化が加速している」と書きました。
 
この秋を境にますますその傾向が強まっているように感じます。
 
 
その「思い」のもたらすものが、いつも
「しあわせ」と感じられればいいのですが、
自分を罰する思いがもたらす
「つらい現実」に遭遇することもあるでしょう。
 
 
わたしたちは、わたしたちが意識できない深いレベルにある「おもい」を
完全にコントロールすることはできないようです。
 
 
ひとつ、可能性があるとするなら、
それは、祈りなのかもしれないとわたしは感じています。
 
 
長い年月、わたしたちの祖先が大切にしてきた祈り。
 
わたしたちがわたしたちの思いを手放し、
大いなる宇宙のリズムと共振したとき、
 
わたしたちは苦しみから自由になり、
新しいステージが始まるのかもしれません。