今日のメッセージは、わたし自身への自戒をこめる意味でも、記録しておきたくて
分ちあうことにします。

「スピリチュアリストの使命は、手にするお金を増やすことではなく、
手にするお金の多寡にかかわらず、幸せでありつづけること」

 

少し前に「引き寄せの法則」がはやりました。

スピリチュアルブームは、「引き寄せの法則」のブームと重なりました。
「幸せなパートナーを引き寄せる」とか「幸せを引き寄せる」とか、
「豊かさを引き寄せる」という言葉に、わたし自身も引き寄せられたし、
それは魅力的な力のように感じたものでした。

3.11の震災以前は。

 

あの震災のあと不思議なことに、
わたしの中でもなにかが変わり、降りてくるメッセージが変わりました。

占いの仕事は、人の悩みに寄り添う仕事ですが、
それは同時に、人の「欲」に向き合うことでもありました。

「あの人の気持ちを手に入れたい」
「好きな仕事に就きたい」

手に入れて、幸せになれれば、それでいいのです。
人は幸せに生きていく必要があると思います。

「貧すれば貪する」という言葉があるように
人は自分が満たされているときにしか、
他の人のことを考える余裕ができないものだからです。

でもあるとき、ふと疑問に思ったのです。

 

「望むものが手に入っても、幸せになる人とならない人がいるのはなぜなのか」

 

そして、
「決して満たされない欲」というものが存在することに気づいたのでした。

 

それは仏教では「渇愛(トゥルシュナー)」と呼ばれるものだそうです。
「喉が渇いて水を求めるように激しく執着すること」と辞書には書かれています。

 

欲しいものが手に入らないとか、大切なものをうしなうといった、
自分の思うままにならないことが「苦しみ」だとしたなら、
「渇愛」は、まさに「果てしない苦しみ」ともいえるでしょう。

 

どんなに喉が渇いていたとしても、水を求める欲望は、
喉の渇きが癒されて、お水でお腹いっぱいになればなくなります。

 

けれども、愛は、物理的な量のないものなので、
「満たされる」という基準がないぶん、「もう十分」という体験は自分の中だけの体験であり、
自分の外側から与えられることでは決して得られないものかもしれません。

 

愛と同じで、「満足」「十分」と思うことが難しいのは、
「お金」です。

 

どんなにお寿司が好きでも、自分だけなら1人前か2人前で「十分」と思えるでしょう。
たくさんあれば家族や知り合いにおすそわけ、というところでしょうか。

それが乾物になると「とっておく」ということになって、人によっては
「もっと」が増えるかもしれません。

 

でも「お金」はどうでしょう。
いくらあっても困らないし、あればあるだけ安心で幸せになれるような気がします。

 

お金も愛と同じで「物理的な満足」の基準が存在しないもののようです。

お金は便利で、わたしたちの生活を豊かにしてくれます。
だから、わたしたちはお金や経済的な豊かさを望み、それを幸せと信じて求めてきました。

 

ですが、お金を求める気持ちには限りがないという側面を知っていなければ、
わたしたちは、果てしなくお金を追い求める、
「渇きに似た苦悩」に、いつのまにか巻き込まれてしまいます。

 

本来スピリチュアルとは、全体と調和し、バランスをとっていく、
ワンネスを思いだすための智慧なのだとわたしは考えています。

 

ですから、スピリチュアリストはお金を引き寄せることを教えて、
お金のなくなる不安を解消するのが使命ではなく、

お金がなくては不安という、底なし沼のような不安から自由になり、
もっと欲しいという欲を手放して、安心して豊かに生きることこそが、
求められているのだと思うのです。

 

もっとシンプルにいうなら、
「お金があってもなくても、平和で幸せでいられる生きる智慧」
と言えるかもしれません。

わたしたちは今、なんでもお金で解決しようとしすぎている気がします。

「水道水がおいしくないからミネラルウォーターを買う」

少し前まで、わたしはそんなふうに考えていました。

川をきれいにすること、森をつくること。
枯れた涌き水を復活させること……

 

そんなふうに、環境に対して意識が向かなかったのです。
それくらい、余裕がありませんでした。

「農作物が足りなくなったら、海外から買えばいい」
と思っていました。

 

わたしたちの近くの農地の環境や、農業を営む人たちの生活に
思いを馳せることもなしに。

 

あらゆることをお金で解決しようとすると、お金が必要になります。

さらに、お金というエネルギーは、「十分」と思うためには、
「渇愛」ともいえる状態の欲と折り合う知性が必要ですから、
それを知らないと、知らず知らずのうちに「お金の奴隷」になってしまいます。

 

わたしは毎朝、明治神宮の森を歩くようになってから、
「わたし」が広がっていく体験をするようになりました。

明治神宮は、人の手によって荒れ地だったところにつくられた人工の森です。

立派な杉林ではなく、全国から寄せられたさまざまな樹木を植林した
この森の多様な植生に、この森に託した当時の人々の思いをかいまみては、
わたしはいつも、その壮大であたたかなビジョンに感動し、癒されます。

そして、そこで出会う人は、もはやわたしにとって
かけがえのない友人であり、家族のようで、
今日も元気な姿をおみかけするたびに
感謝の祈りを捧げずにはいられないし、

森で出会う動物や小鳥たち、そしてせせらぎの音を聞くたびに、
ああ今日もここに昨日と変わらず水がわいていることに感動し、
やはり感謝の気持ちが自然にわいてくるのです。

もしも、お金がなかったら、水も農作物も、
「買う」ことができません。

でも、きっとわたしたちの住む世界の水や大地をもっと大切にすることでしょう。

お金はいらないとか、
お金は罪だとか、悪だとか、
お金の是非を問うているのではありません。

お金そのものに価値の善悪は存在しません。
お金は、それをあつかう人によって、価値が決まるものです。

わたしたちが、欲に惑わされることなく、いつも幸せでいること。

物質世界に行き詰まりを感じるわたしたちに、
今いちばん必要なメッセージだと思います。