「癒しても癒しても、心の傷が消えない」という悩みを抱えているあなたへ。

今日はわたし自身の話をしたいと思います。

わたしもまた、たくさんのトラウマを抱えて
いきづらさを感じていた人間のひとりです。

両親が離婚したことを、
大好きだった祖父が突然に自死を選んで去ってしまったことを、
いじめられた子ども時代を、
忙しかった母に認められたかった思いを、

一生懸命に癒していたころがありました。

そして、ホメオパシー、漢方などの統合医療や、心理療法、ヒプノセラピーや
キネシオロジー、チャクラの調整といったエネルギーワークなどなど、
いろんなセラピーをその過程で学びました。

ですが、セラピーで、心理的なトラウマやブロックと呼ばれるものを手放しても、
また新たな「心の傷」がでてきたり、
癒したはずの傷にまたこだわりだしたりして、
完全にすっきりすることはなかったのです。

「(手放すという)コミットが足りないから」とか、
「もっと深い部分での癒しが必要なのかもしれない」とか、
「傷を持っていることが好きなのね」などと言われたりして、

「癒されるには、もっと(セラピーを)がんばらなければならない」と、長い間思っていました。

そして、自分の心理を分析してみて、
「わたしはかなしむのが好きらしい」とはわかったものの、
ではどうしたらいいのかというところは、答えが見つからないままでした。

人生のテーマのように横たわっている「悲しみ」をどうしたら癒せるのか、
を模索する日々が続きました。

変化が訪れたのは、仕事としてカウンセリングをさせていただいていたある日のことです。
仕事が大好きで、食事をする時間も寝る時間も惜しんでお話を聞く日々でした。
月にのべ100人から200人くらいの方のご相談をお聞きしていました。

そんななかあるときふと、
悩み、苦しみながら一生懸命にいきていらっしゃる、その姿のありのままが本当に愛おしく思えたのです。
今、悲しみの中にいて一生懸命いきていらっしゃる、その姿が尊いのだと。

その方のもっている感情が、
喜びや幸福感などのポジティブなものであれ、怒りや悲しみなどネガティブなものであれ、
すべてが生命のエネルギーであり、
問題が解決しているかしていないかは、そのいのちの輝きにはまったく関係がないのだとわかりました。

お客さまおひとりおひとりの生きざまの美しさに触れ、
わたし自身もそのときようやく、「かなしみを抱えたまま生きる」ということを
自分自身にゆるすことができたような気がします。

それから、わたしには今まで目に入っていたのに、目に入らなかったものがみえてきたのです。

あるとき散歩の途中で立ち寄った教会に、美しいマリア像がありました。
その日神父さまから、「聖母マリアは平凡なわたしたちには誰も理解することができない
大きなかなしみとともに生きた方」というお話をききました。

あの慈しみは、かなしみとともにある。

悲しみを抱えている人は、ほんとうのやさしさを持っているように思うのです。
わたしの大好きな友人にもそんな人がたくさんいます。

彼女たちは、かなしみが癒されたから、やさしいのではありません。
たぶん、かなしみとともにあるからこそ、つよく、そして人にもやさしくいられるような気がします。

悲しみや憎しみを癒すというのは、体の手当と同じことかもしれません。
擦り傷や打ち身みたいな、ちょっとしたけがや風邪くらいなら、
薬や簡単な治療で治すことができますし、
薬をあまりつかわないで、体に備わっている自然治癒力を働かせるようにすることもできるでしょう。

でも、片腕をうしなったり、目が不自由になってしまって、治る見込みがないとしたら、
それとともに生きていくしかありません。

わたしの家族もそうですが、そうして障がいとともに生きている人はたくさんいます。

逆にいうと、治せる可能性のあるくらいの傷だから、「癒す」という選択があるのかもしれません。

最近、散歩がきっかけで、街の歴史について聞くチャンスが増えました。

サロンの近くにある明治神宮は、空襲で社殿が焼け落ち、
表参道のけやき並木も真っ黒に焼け落ちたそうです。
その後明治神宮周囲の一帯はGHQの占領下におかれましたが、
オリンピックを契機に返還され、今があります。

愛する家族や住み慣れた家をうしない、大変な思いをされた方々が
それぞれにいろんな思いを抱えながら、戦後の日本を築いてくださいました。
その心のうちにある嘆きやかなしみを、声高に語ることはなくとも。

震災後の復興も同じことなのだと思います。
住む人の心の傷が癒えたから、街が復興したわけではないのです。

奇跡は、感情とともに、あるときに起きるのかもしれません。
人間の起こす奇跡は、感情というパワーがもたらすもののような気がします。

「癒さなければならない」という幻想から解放されて、わたしは自由になりました。

そして、今まで「癒された人」に対する憧れという幻想にしばられていた自分に気づきました。
そこには、あるがままの他者をうけいれるというやさしさがありませんでした。

足が不自由でも、耳が聞えなくても、つらい過去を持っていたとしても、
完全性が損なわれたわけではなかったのです。

他の人も、自分自身も。

治療すれば治るような傷を治療せずに、傷み苦しむ必要はありません。

でも、癒しても癒しても治らない傷みがあるとしたら、
その傷みとともに生きるという選択肢があり、
それは、とてつもないパワーを発揮するということをお伝えしたいのです。