女神

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

欲しかったのに手に入れられなかったものがあるでしょうか。

たぶん、誰にでもあると思います。
わたしも、「両親そろった普通の家庭に育ちたかった」とか、
「母にもっとやさしくしてほしかった」といった
他者によって与えられなかったことから、
(大学進学に薬科を選択したので)「就職先の選択の自由がなかった」とか、
「自分の子どもを育てる」といった自分自身の責任において
手にすることができなかったものまで、いくつもの「得られなかった」という
残念な想いを抱えていた時期がありました。

そして、わたし自身の「今」の幸福感のなさを、それらのせいにしていました。

幼少期の肉親とのふれあいが、人間性の確立に大きく影響するとか、
子どもの成長には両親がそろっていることが大切だとか、
いい先生や仲間に出会うことがどれほど大切かということが声高に語られるので、

いつのまにか、わたしはそれらがとても重要なことのように思え、
いつのまにか自分自身がそれらを得られなかったことを
悔やむようになっていたように思います。

そうするうちに、わたしは自分の人生のなかに「不足」ばかり目にするようになり、
だんだん自分の人生がみじめに思え、
ついにはそれを与えてくれなかった人(特に母)に対する不満ばかりが募りました。

ある日ふと、わたしは漠然と感じていた生きづらさよりも、
それを解消しようと手がかりを探し求めているうちにはまり込んだ
原因探しの迷路の地獄のほうがずっと苦しいような気がしました。
まわりを見渡しても幸せそうな人はいませんでした。
わたしは、「癒す」という作業に希望を持てなくなったので、逃げ出したいと思い、
ちょうど縁あってアフリカへの旅に出ることにしました。
もう20年近く前の話です。

アフリカ大陸はとにかく広くて、気候も厳しいうえ、日本の常識は通用しないし、
一緒に旅をするのも世界中から集まった変わりものばかり。
うだうだと悩むヒマもなく、感傷にひたっていたとしても
同情して慰めてくれる人もいません。
毎日をつつがなくやり過ごすことに必死で、過去のことにこだわることはありませんでした。

それからはずっと「心の傷の癒し」からは距離を置いていました。
「心の傷」を癒さなくても楽しく生きていけると旅の体験でわかっていたからです。

そんなとき縁あって、スピリチュアルなヒーリングを学ぶ機会を得ました。

興味深い教えもたくさん得られましたが、セラピーの手法のほとんどは、
幼少期のトラウマ、出産時のトラウマ、過去世のトラウマと、
「問題を解決」することにフォーカスしたものか、自分よりパワーのあるものを手にする
(パワーストーンや、特別なエネルギーのチューニング)というものがほとんどでした。

心理学では基本的に、生まれてから現在までという限られた期間しか扱いませんが、
スピリチュアルな手法では、前世や過去世というものを扱います。
「改善がみられなければさらに遡って過去を調べる」ことをしていきます。
わたしはレッスンの一環としてヒーリングを受ける側であるとき、
「もっと深い部分を」と言われることに違和感がありましたし、
さらにわたしがヒーリングを行う側になって、
お客様から「まだ(癒さなければならないことが)あるように思う」と言われることが、
仕事としてはありがたいけれど、違和感を覚えるようになりました。

また「エネルギーをチューニング」するような「伝授」のヒーリング手法でも、
効果がみとめられなければ「もっとエネルギーの高いもの」を求めていくことに
疑問を感じるようになり、ヒーリングの手法をつかうことはやめてしまったのでした。

それは、かつて「自分の不足」を探してはどんどん苦しくなっていったころと
同じような気がしたからです。

わたしはあるときをさかいに、自然と「不足」にフォーカスしなくなりました。
それは、3.11の原発事故のときに受け取った
「もっと、もっとという人々の限りのない欲が、地上での不調和を生み出している」
というメッセージがきっかけでした。

その人が手にしている「たからもの」を一緒にみつけてそれを祝福すれば、
その人のいのちが輝き出します。
その人が未解決の問題を抱えていたとしてもです。

「足りないもの」「欠けたもの」ではなく、「今、ここにあるもの」に意識を向けていく。

人がしあわせを感じられるようになるためには、原因探しは必要ない、
ただ「すでにあるもの」に意識をむけていく。
それだけでいいのだと、はっきりとわかったのでした。

「ないものねだり」といいますが、振り返ってみるとわたしたちはそもそも、
「ないもの」にフォーカスする性質をもっているいきものなのかもしれません。
それこそが、進化や進歩の原動力でもあるのでしょう。

ですが、よく考えてみると、「得られなかった」というのは、
1つの側面からの視点にすぎないということがわかります。

たとえば「両親が離婚してお父さんがいなかった」という「父の不在」という不足は、
「母子家庭としての特別な体験を得た」という側面も同時に持ち合わせますし、
「子どもとの別離」という体験は、「子どもに関わる時間の代わりに
自由な時間を得た」という側面も持ち合わせるのです。

たとえばわたしたちが、いのちという大きな袋を持っているとして、
その袋から「お父さん」がこぼれたとしたら、「お父さん」の分の空間が生まれます。
その空間は、決して「無」ではなく、容易にみえるものではないかもしれないけれど、
それは特別なたからものに満たされた空間です。

それこそが、「生まれる前に決めてきた」あなたの魂のテーマであり、
あなたが今悔やんでいる気持ちと同じか、それ以上に強く望んだ特別な体験なのです。
5000人以上の方をみさせていただいて、心からそう思うようになりました。

わたし自身は、この人生で、肉親との縁が薄い孤独な体験を選びました。
おそらく、わたしが得られなかったものは、「肉親の情」。

わたしはそのおかげで、家族という枠組みにしばられることなく、
魂の家族たちと再会するという体験をすることができました。
ひとりぼっちで、地球に降り立った、清らかないのちの記憶を持った
魂の姉妹に出会えたことがわたしのいのちのたからものです。

得られなかったものの代わりに、必ずあなたは手にしているものがあるはずです。
それは、容易に目にすることができないけれど、
あなたにとってかけがえのない大きなギフトです。

あなたが本当にしあわせになりたいと思ったら、得られなかったものではなく、
その代わりに得ているものに心を向けてください。
あなたが喪ったものが大きければ大きいほど、
そのスペースには、大きなおくりものが用意されているのです。

生まれるまえに、あなた自身が決めていた、
あなたがここに生まれてきた理由のすべてが、
そこに隠されています。