
今までのやり方では、対応できない状況に、遭遇していませんか。
わたしが今、目にしているケースでは、
「今まで、距離をとることでバランスをとってきたけれど、
ついに逃げられなくなってしまった」というものが多いように感じます。
たとえば、ゆるせないと感じている過去のできごとや、
人に対して、今まではその人物を遠ざけることで対処してきたのに、ついに向き合わざるを得なくなってしまったというものです。
具体的な例をあげると、
「わがままなお母さんに耐えられなくなって、家を出て一人暮らしをはじめたけれど、
介護で実家に帰らなくてはならなくなった」とか、
「ネガティブなことばかり口にする同僚から距離をおいていたのに、
プロジェクトが一緒になってしまって無視するわけにいかなくなった」とか、
「暗いニュースをみると気分が下がるので、テレビや新聞をみないようにしていたのだけれど、
家族が新聞を契約してしまった」というようなものなど。
もしあなたが、今までは、問題を遠ざけることで乗り越えていた問題が、ふたたびあなたの前に訪れているとしたら、飛躍するチャンスが巡ってきているのかもしれません。
つまり、問題に取り組む準備ができたということです。
わたしたちは、不快な状況が起きたとき、起こっていることが、
わたしたちの気持ちを攻撃してくるような錯覚におそわれてしまいます。
そして、不快になった原因が、問題にあると信じてしまいます。
「この問題さえなければ、こんな気持ちにならないのに」
それは、ある意味正解なのですが、起きている状況だけが原因ではありません。
同じ状況でも、動じないでいられる人もいるからです。
つまり、同じ問題に対して、とる反応は、人それぞれなのです。
わたしたちは、個々に「許容レベル」というものをもっているようです。
ちょっとのことで腹を立ててしまう人もいるし、さほどのことでは動じない人もいるでしょう。
その違いはなんだと思いますか?
「人間ができている」
そう言われることが多いですが、「人間ができている」っていったいどんなことをいうのでしょう?
歳をとるということでしょうか。
それも、個人差がありますから、絶対ではなさそうです。
わたしは、「人間ができている」というのは、
「観念がすくない」ということなのだと感じています。
「礼儀をつくすべきだ」とか「人は正しくあらねばならない」など、
観念の数が多ければ多いほど、傷ついたり、怒ったりすることが多いからです。
観念と感情は、いつも連動しています。
観念が揺るがされたとき、感情が動きます。
感情に振り回されない自分になるには、観念を手放せばいいのです。
観念がなければ、傷つくことも、腹を立てることもありません。
では、観念を手放すには、どうしたらいいのでしょうか?
まずひとつは、感情が動いたとき、あなたの気持ちを動かしている前提を点検してみて、
自分自身に「本当に?」とたずねてみます。
例えば、「列に割り込まれたとき、腹がたつ」と気づいたとき。
「列には、きちんと並ぶべきだ」という観念があります。
そして、おそらく、あなたはそれをあたりまえ、とやってきたのでしょう。
でも、割り込んだ人は、それほどそのルールを重要だと思っていないかもしれません。
わたしは、関西人なのですが、東京にきたばかりのころ、電車にのったとき、
あまりの乗車マナーのよさに顔から火をふきだしそうなほど、
恥ずかしい思いをしたことがあります。
わたしは、当時の大阪では、十分に「整列乗車を心がけている」と信じていたからです。
同じルールをもっていたとしても、人それぞれに、
それに対する思い入れや理解のレベルが違うものなのでしょう。
あなたの持っている「常識」に「本当に?」と問いかけることで、
頑な観念にゆらぎを起こすことができ、手放すチャンスがやってきます。
もうひとつの方法は、相手の立場を理解する、ということです。
「なぜこの人はそんなことをするのだろう?」
相手の立場にたって考えてみることです。
たとえば、人の悪口ばかり言っている人は、「人より優れていたい」という強い思いがあります。
もっと深くみていくと、「人より優れていたい」という思いの奥には、
「自分は人より劣っている」という自信のなさが見えますし、
もっと深い部分には、「わたしは誰からも愛されない」という絶望と、
「愛されたい」という強い願いがみえます。
そして、そこには、あなた自身の魂からの叫び声が聞こえてくるのではないでしょうか。
そのような人に感情を動かされるときの多くは、自分自身にも似通った感情があるものです。
また、相手の事情が理解できるレベルに応じて、見える世界は変化していくようです。
わたし自身を振り返ってみても、たとえば、「母が料理が苦手だったこと」についても、ずいぶん感情が変化しました。
わたしの母は、働いていたのですが、忙しいこともあって、お弁当は、
ほとんど味のないキャベツのいためものと塩味の卵焼きが無造作に入っていたりすることもあり、
正直にいってお弁当の時間が苦痛でした。
お友達に見せるのも、恥ずかしいし、おいしくないと感じていたので、
食べることができず、こっそり捨てたこともありました。
それが母にみつかったこともあったときなど、そんなひどい自分を責めたり、
わたしの気持ちをわかってくれない母を悲しく思ったり、
責める母のことを怨んだり、他のお母さんをうらやむこともありました。
問題の渦中にいて、感情の渦をぐるぐるまわっている状態です。
でも、自分自身も働くようになり、仕事をしていると余裕がないことを理解できるようになると、「仕方なかった」と思えるようになりました。
「仕方なかったんだ」そう思ったら、心が落ち着くのを感じました。
長い間、そうして、その問題を考えることはありませんでしたが、
ある日ふとしたことがきっかけで、あることを思い出したのです。
それは、
「母が子どものころ腎臓病で、味のついたものをほとんど食べることができなかった」
ということ。
もちろん、それはわたし自身も何度も聞いていたエピソードでもありました。
でも、その瞬間はじめて理解できたのです。
「母は、料理が苦手だったんだな」というとてもあたりまえのことでした。
味覚は幼い頃にどれだけ多様な味を体験するかで決まります。
一番敏感な幼少期に、食事制限をうけていたということは、
たぶん味覚はそれほど磨かれなかったはずです。
それが理解できた瞬間、母がわたしにしてくれた教育の数々が一斉に思い出されました。
わたしは料理が好きで、スパイスや調味料など、わりと複雑なものでもみわけて再現することができます。
子どものころから、海外も含めて、いろんな場所で、子どもが普通体験することがない食べものを体験してきたことも大きく影響しています。
それまでは、「母が料理が苦手だから」と漠然と思っていたのかもしれません。
でも、母が病気だったこと、おそらく味覚に対するコンプレックスを持っていただろうことを感じたとき、
母のしてくれたことに、今までにない感謝がとめどなくあふれてきたのです。
人には、そのときには、わからないことがあります。
それは、自分自身が他人に対しても、そうですし、
同じことが、相手にもいえます。
「あとで、わかることもある」のです。
だから、今日は、あなたがもし、かつて遠ざけていた問題にふたたび直面していたとしたら、
以前とは、違うレベルでの解決ができる、ということを思い出してみましょう。
あなたは、前回同じ問題に直面したときよりも、たくさんの経験値を持っているはず。
遠ざけるのではなく、理解できるという可能性があるのです。
相手の行動の奥にある、理由にフォーカスしてみましょう。
あなたにもある、その心の痛みを、ゆるすことで分かち合うことができます。
あなたの前にいる人は、あなたを助けにきた人。
あなたと、わたしは、ひとつ。
わたしたちが、みんなひとつであるように。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今日もあなたにすてきなことが、たくさん起こります☆
感謝をこめて。
