八百万の神

八百万の神
やおよろずのかみ。

「日本人が万物にみてきた八百万の神とは、
人間のことなのかもしれない」

神在月に出雲大社で八百万の神の祠にお供えされている
お米やお酒、くだものをみて、そう思ったのです。
たくさんのお供えは、人の喜ぶものばかりだったから。

岩に、山に、空間に。
あらゆるものに神をみてきた日本人。

外の世界にみるものは、すべて自己の投影であるとするならば、
わたしたちの心は、神の清らかさが備わっていたということなのでしょうか。

少なくとも、太陽に、大地に、雨に、感謝の祈りを捧げてきた人たちの姿は
美しく、愛にあふれていて神を感じるような気がするのです。

日本の神話には、とても神さまと思えないような悪さをする神さまも登場します。
でもそんな神さまも、その神さまにしかできないことをなさっていて、
やはり神さまなのです。

八百万の神という万物の中に神をみるという行為は、
「いろんなものをありのままに受け入れ、祝福する」
ということと同義なのだと思うのです。

そして、それこそがあらゆる奇跡の源なのかもしれないと。

『A Course in Miracles(奇跡のコース)』には、
Atonement(アトーンメント)ということばが出てきます。

アトーンメントとは、贖(あがな)いと訳されますが、
聖書にさほどなじみのない日本人にはわかりにくい概念ですから、
奇跡のコースの学習をしていたときによく疑問に感じたものでした。

でも今は、こう思うのです。
「八百万の神」というわたしたちになじみのある概念は、まさにこの”Atonement”なのだと。

八百万の神。
つまり、森羅万象、宇宙に存在するすべてに神をみるということ。

それは、わたしたちの中にある神性を思いだすという行為。

「八百万の神」の精神を思いだすときこそ、
わたしたちは神とひとつであり、
奇跡を目撃しているときなのだと思うのです。