熊野古道(川の道)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、
久しくとどまりたるためしなし」
『方丈記』より

この世の無常を河の流れにたとえたのは鴨長明ですが、
わたしたちの住む世界は一瞬たりとも同じ瞬間はなく、
留まっているように見えたとしても、決して同じではないのだと、
わたしは、毎日同じ場所を歩いていて、あらためて思うのです。

昨日は細くてまっすぐだった小枝に、
今日は小さなふくらみがあったり、
そのふくらみから、柔らかなみどりいろが吹き出していたり、
雨のあとには、せせらぎの音がうれしそうにいつもより大きく響いていたり、
すれちがう人のコートが、明るい春の色になっていたり……

そしていつのまにか、森全体が新緑の季節を迎え、
聞える鳥のさえずりも変わって、
ああいつのまにか夏がきたのだと、
誰もがわかる変化を遂げているのです。

ほんとうは、毎日少しずつ違っていて、
もしかしたら、朝と夕方でもずいぶん違っていたのけれど、
わたしたちの目には、わずかな変化を知覚するのはうんと難しいことのような気がします。

一瞬たりとも留まることのない、この大きな流れに気づいたら、

「もう流されていいのかもしれない」

今まで自分のいきたいように、がむしゃらに、
力づくで舟を漕ぎ続け、ちょっぴり疲れてしまったわたしは、
ときおり人生の舵取りを手放したくなる衝動にかられることがありました。

それはまるで大河にうかぶ小舟のようで、
流れにのまれて、誰かの舟にぶつかって叱られたり、
岩にのりあげて舟をいためたり、
思ってもみないところに流されてしまったり。
とにかく危なっかしく、かといって目的地もなく、
この急流下りがつらくて、
投げ出したいという気持ちになったこともしばしばでした。

エゴを手放せば、楽になれる。
そう信じてあらゆるコダワリを捨てていったつもりだったけれど、
誰かのいうことにふりまわされたり、
相手のいうことに従っても、平和な結果をもたらさなかったり……

でもなにが違うのかは、わからなかったのです。

「神の道具になるとか、地上に天国をつくるって、どうすればいいのだろう?」

長い間わたしは考え続けてきました。
自分の考えを手放したからといって、神はなにか言ってくれるわけではなく、
他の誰かの考えにあわせることになるだけでした。

さらに、自分と同じようないのちの傾向をもつ人としかご縁がないわけですから、
結局は、自分の考えで動くときと同じようなことしか起こりませんでした。

うまくいくときも、いかないときもあり、
それはすべて運任せという感じだったのです。

わたしが手放していたのは、自分の我欲なのではなくて、
わたし自身の人生に対する責任だったのだとわかったのは、
あるとき、いつものとおり朝のお詣りをしていたときでした。

そのとき初めて神さまの前で泣きました。
お腹の真ん中から突き上げてくるような大きな感情とともに
涙があふれ出したのです。

いつからか、わたしの人生には「あきらめ」が蔓延していました。

難しい選択を迫られたときには、
親が望むことだからこれでいいやとか、
上司がそういうなら仕方ないとか、
他の人がそうしたいというなら、従おうとか、

「エゴ」を手放すつもりで、実は「自分の意志」を手放していたように思います。

あきらめるとは、仏教では「明らかにする」という意味が含まれていますが、
わたしはうまくいかない理由ばかりを見つめてきて、
「自分自身の心のありようをみつめる」という大切なことをしてきませんでした。

ですから本当の意味で、なにも明らかになどしておらず、
あきらめきれてはいなかったのです。

自分自身の気持ちをいつも置き去りにしているので、
なんともいえない淋しさを感じてきたのだと、
神さまの前で、きづいたのでした。

「流れに棹さす」という言葉がありますが、
生きるということは、まさにそのことなのだと思うのです。

いのちという大きな流れのなかに、意志の力という棹をさして、
旅を続けるということ。

本来は、流れにうまく棹をさせば、
流れを活かしてより楽に、思う方向に
舟をすすめることができるのだと思うのです。

もちろん、棹をあえて難しい方向にさして修行を楽しむ方もいるかもしれませんが、
その棹さばきこそが、わたしたちの人生そのものなのかもしれません。

いのちの大河に浮かぶ舟で、棹を渡されている唯一のいきものは
人間だけなのですから。