朝日(変換後)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夏至になり、太陽の存在がますます力強く感じられる今日このごろですね。
今日は太陽に祈る民のお話をしたいと思います。

沖縄の久高島を最初に訪れたのは、20年近く前のことです。

不思議な縁で知り合った沖縄在住の方が、
「沖縄で一番すてきな場所」と言って、
わたしが沖縄を訪れるたびに連れていってくださった斎場御嶽。

当時わたしは「御嶽」という言葉を知らなかったし、
エネルギーというものにもまったく無反応だったので、
斎場御嶽がどういう場所かまったくわかりませんでした。

その方に、「ここは何?」と聞いても
「このすごさがわからんかね?!」
といわれるだけ。
自分で調べるほどの興味もなかったのです。

当時の斎場御嶽は、世界遺産に登録される前で、
今のようなスピリチュアルブームもなかったので、わたしには
「深い森があって、自然な姿の泉のような池があって、
見晴らしのいい場所から、対岸の白く輝いている島が見える場所」
という印象しかありませんでした。

ですが、とにかく「沖縄でいちばん有名で、すごい場所」といわれていたので、
訪れるたびにとりあえず、斎場御嶽に行くことにしていました。
ある年、いつものように斎場御嶽を訪れたあと、今日の宿を探そうと
斎場御嶽のいちばん下の入口(今は閉鎖になったようです)から
ふと視線をあげると、渡し船のようなものがありました。

20分ほどで対岸の島に行けると看板に書いてあって、
島の名前は久高島。
そして最終の船の時間まであと少し。

手持ちのガイドブックをみると、久高島についての説明はなかったけれど、
宿泊案内に民宿が2軒載っていて、それが一泊2000円程度の格安だったので、
さっそく電話したのです。
いつもこういう流れのときはすんなりいくのに、
その日は、電話に出たおばあに
「今日はお祭りの用事があるから、泊めれない~」と言われたのでした。

それなら仕方がないと、電話を切ろうとしたら、
「ところで、どこから電話してる?」と聞かれます。

「斎場御嶽ですけど」というと、
「それなら断れんから、おかまいできないけどいらっしゃい」ということになったのです。
それがわたしにとってはじめての久高島。
船の出発まで時間もないのでそのまま船にのりこみ、
宿についたらご飯もないので、朝がくるのを楽しみに早々に眠りについたのでした。
そして翌朝は空腹もあってとにかく朝早くから島を歩きました。
自然豊かだけれど、安全な場所。
そんな印象の場所でした。
自然が豊かでも、そのエネルギーが荒々しく、怖いと感じる場所もありますが、
久高島は母の胎内を感じるような、どこにいても守られていて安心していられる……
そんな感じがしたのです。

原生林のような深い森の中でありながら、祈りの力で守られている、
そんな感じがするのです。

 

その後、しばらくぶりに沖縄を訪れると、
斎場御嶽は立派な石碑がたち、道なども整備されていて見違えるようになっていて、
久高島には、きれいなお洋服とパンプスのお嬢さんがたくさんいらしてびっくりしました。

久高島は、「神の島」と呼ばれているということは、
そのとき知りました。
昨年の神在月に出雲を訪れたときに、なぜか、むかし久高島でお世話になった
民宿のおばあのことが思いだされて、どうしても会いたくなり、
ことし、20年ぶりに民宿のおばあを訪ねました。
今回は偶然久高島のガイドをお願いすることができました。
(しかもその方はおばあの親戚だったのです)

久高島にはまるで旧約聖書に出てくる「マナの壷」を彷彿させるような
五穀の壷が流れ着いたという伝説(実話?)があり、
その壷のタネを蒔いて最初に畑を作ったという畑も残っているとか、

アマミキヨという女神が、天下って沖縄を創世した(天孫族)とか、

出雲の宮司さんが、久高島に龍蛇を確かめにきたらしいとか、

今まで知らなかった話をたくさん聞きました。
なるほど、だから神在月の出雲(神在月だけ、龍蛇神がご開帳され、そのお札が授与される)で、
久高島が気になったのかと納得したのでした。
龍蛇が呼んでくれたのかもしれません。

 

昔お世話になったおばあもかわらず元気で、
いろんな話を聞かせてくれ、楽しい時間を過ごしました。

朝起きたら「太陽てらてら、いきなさい」といってくれたので、
夜明けの太陽を拝みにいきました。

海のむこうにのぼる太陽に拝む。
この島は1978年を最後に途絶えてしまった
イザイホーという大きな神事のことが大きく取り上げられる島ですが、
島の女性の日々の祈りに守られている島なのです。
太陽神を信仰する習慣は世界の各地にあって、
実際に、インカのお祭りは太陽そのものを崇拝の対象にしています。
朝に礼拝、夕べに感謝。
今日も朝を連れてきてくれた太陽に感謝を捧げるとき、
わたしはその太陽の向こうに、わたしと同じように
この太陽に祈る人の姿をともにみるのです。
わたしは太陽に拝むとき、その向こうにいるたくさんの女性たちとつながり、
そしてこの地上に、太陽とともに平和な時間が訪れることに対する
感謝と祝福をおくりともに喜ぶことができます。

 

だからもし、あなたが人との関わり合いのなかで生きづらさを感じていたなら、
人をみるのではなく、朝の太陽にむかってほしいのです。

誰にでも、等しく恵みを与えてくれるあのエネルギーとともに、
同じ思いで祈りを送っている世界中の仲間の存在をかんじられるから。
そしてその思いをともに確認できたなら、
それぞれの場所でめいっぱいすべきことをなしていけると思うのです。

 

わたしにとって太陽への祈りは、
どんなときもひとりぼっちではないことを
思いだすための儀式です。

もしあなたが孤独を感じていたら、
太陽に祈る世界中のひとたちを思いだしてみてください。
みんなの思いが、あの太陽にはこめられているのです。