劣等感。

これほど、人間関係に影響している感情はないのではないでしょうか。

わたしたちが人間関係において「嫌な感じ」を持つもののほとんどが、
「劣等感」によるものなのではないかと思います。
逆にいうと、「劣等感」はそれくらいありふれた感情なのかもしれません。

わたしは子どものときよくいじめられたので、劣等感のかたまりでした。

お父さんがいないから、
いい子ぶりっこだから、
内股歩きでかっこうが悪いから、
直毛だから、
二重だから……

いじめっ子が言う「いじめる」理由を真に受けて、
だからわたしはダメなんだと思っていました。

今聞いたら、笑ってしまうような理由ですが、
いじめの渦中にいるときには、視野が狭くなっていますから、
言われるままに、劣等感を持ってしまっていたのでした。

そして、わたしはずいぶん長い間、人づきあいが苦手のままでした。

最近何人かの方から
「人から好かれていないように感じる」という悩みをお聞きしました。
わたし自身も同じような感覚を長く持っていたので、
興味深く聞きました。

彼女たちは、経済的にも社会的にも成功していて、パートナーもいて、
人柄もよく、「好かれない」理由が見当たらない人たちです。
でも、「人からやさしくされない」「冷たくされているように感じる」と
孤独感を持っていました。

話を聞いていて感じたのは、「劣等感」の存在です。
人は、自分より弱い人にはやさしくしたくなる性質があるように思います。
たとえばFacebookやTwitterで「わたしはこんなにうまくいってます」という投稿よりは、
「落ち込んでいます」というような投稿のほうが「いいね」が集まることは、
多くの人もお気づきなのではないでしょうか。

劣等感は、優れている(ようにみえる)他者と自分との比較によって起きる感情なので、
「誰からみても素敵な人」というのは、劣等感を持っている人にはそれを刺激されるし、
いじめようというわけではないけれど、わざわざやさしくする気になれない存在、
ということになるのでしょう。

でも、不思議なことに、「誰からみても素敵な人」である彼女たち自身も、
よく聞いてみると、劣等感があるというのです。
結局、劣等感というのは、現実に劣っているから持つもの、というわけではないのですね。

わたしと同じで子どものころいじめられたり、まわりから厳しくされたりで、
自信がないと彼女たちは言います。
だからこそ、人より優れようと、人一倍がんばってきたそうです。
深い部分で劣等感につながる感情がそこにはありました。

『A Course in Miracles(奇跡のコース)』では、
「知覚するものはすべて幻想」と教えています。
わたしたちの心は、ありのままにものごとをみられないようにできているのです。

わたしたちは、他者との関わりの中で、自己を確認しながら生きています。
人間としての「わたし」という存在は、他人あってのものなのです。
だからこそ、わたしたちは、人と比べるという性質を持ち合わせているのかもしれません。
劣等感も、優越感も。

わたしたちは、この世で生きている限り、人と比べるという性質を
手放すことはできないような気がします。
人間としてよりよく生きるために備えられた基本的な機能のように思うからです。

人をうらやむ気持ちが芽生えることから、自覚していない願望に気づけるし、
それによって、「どう生きるか」を定めていけます。

話を戻しますと、「人から好かれない」というのは、
まわりの人の劣等感と、彼女たち自身の劣等感が引き合う結果でした。
彼女たちもまた、「こんな自分では愛されない」という思いを持っていて、
それをまわりの人の冷たい態度を通してみていたのでしょう。

彼女たちの劣等感が癒されて、弱い自分も認められるようになったら、
人間関係も変わるかもしれません。

でも、変わらなくても、それはいいのです。

本当に強くて優しい人は孤独です。
でも神さまの大いなる愛を感じられるのは、そんなときだからです。