わたしは、片付けがあまり得意ではありません。
だから、モノを極力もたないようにしています。
「ダンシャリアン」というそうですね。

今はバランスがとれてきたのか、それほどでもなくなりましたが、
お友だちが部屋に遊びにくると「ここに住んでるの?!」と驚くくらい、
生活感がない部屋に住んでいました。

また、わたしとは逆に、母は愛着のある品々に囲まれているのが好きな人で、
わたしが子ども時代を過ごした家はモノがたくさんあったので、
さっぱりした部屋に憧れていたのかもしれません。

わたしは子ども時代に楽しかった記憶がないと思っていたので、
思い出にも興味がなかったし、思い出の品に未練もなく、
捨てることは、嫌な過去を消し去るような感覚にもなり、
まったく苦にならなかったのです。

あるとき、わたしくらいのお嬢様をお持ちの方が、
「ウチの娘は子どものときのアルバムも邪魔になるからいらないと言う」と
こぼしていらっしゃいました。

わたしがドキリとしたのは言うまでもありません。
かつてわたしもそう思っていたし、わたしもずいぶん前に、母に言ったことがありました。

「子どものときに、みんなに大事にされてきた、という記録なのに」

ご婦人のおっしゃることが、ものすごく身にしみたと同時に、
わたし自身、そして彼女のお嬢様も含めた今どきの人たちが、
とても乾いた価値観の中に生きているのかもしれないとしみじみ思ったのでした。

40代のわたしたちが生まれ育ったのは、モノがあふれる時代で、
ひとつのものを大切に使うというよりは、新しいものを買うことを選択する時代でした。

もちろん、わたしの親の世代は戦中戦後のモノのない時代を知っていますから、
親からはモノを大切にと教えられて育ちました。

でもわたしたちが育った時代は、同時に「経済の発展」が優先された時代でもありました。
モノをつくって売り、お金を得る、という時代。

だから、修理して使うより新しいものを買ったほうが、つくる人も売る人も潤う、
どうすれば、みんなが経済的に豊かになるか、
それを優先する価値観の中で育ったのだと思います。

服も、家電も、いろんな道具も、修理して使うより、
新しいものを買ったほうが安いという基準で選んだし、
もしみなが同じものを長く修理することを選択していたとしたら、
今のように産業は発展しなかったかもしれません。

価値は、つねに経済を軸に考えるものだったし、
わたしたちも知らず知らずのうちに、そう選択してきました。

生活が成り立たないから、代々続いた伝統工芸を廃業する方が多くいます。

和楽器を代々つくっているわたしの友人も
「親がつくった楽器を修理できませんでは申し訳がないから、自分が生きているうちだけは」
という思いだけで続けているそうです。

「思い」は現代では、「価値」ではないのかもしれません。

ですが、「思い」には、パワーがあると思います。

あのご婦人のお嬢さんが、きれいな産着にくるまれて
誇らしげな若いころのお母さんに抱かれている
赤ちゃんの自分の写真を通して、ご両親の思いにつながることができたとき、
どんな励ましの言葉より大きな力を得ると思うし、

和楽器職人のご主人が、どんなときもお店を守り続けた力も
先祖代々受け継いできた「思い」の賜物だと思うし、

子どもを持つ人ががんばれるのも、
子ども時代にいろんな努力ができるのも、
「思い」の力だと思うからです。

「思い」も大切にしていきたいと思うこのごろです。